民宿の概念

 民宿という語を広辞苑で引いてみると、旅行者などが営業旅館でなく一般民家に宿泊すること。また、その宿。民泊。となっています。このことから、民家という家が、一般の人(民)をとめる(宿)ことからはじまったとみるべきでしょう。また、観光事業研究会の観光事典によれば、大きな催物のおこなわれるとき、宿泊営業施設が不足するため、一般民家に依頼して来前者を宿泊させることを民宿という。また、スキー、海水浴などの近郊民家が季節的に旅館業を営む季節旅館のことも一般に民宿と呼んでいる。と定義しています。
 この定義について、古沢教授は「この定義のうち、前者は全く臨時的なものであり、後者は継続性をもっているから、現在、私達が「民宿」というときには後者をさしているといえる。」としています。そして同教授は、旅館業としてはなりたたない条件を負っており、「臨時の宿」か「民宿」という営業活動としてなりたつ条件を備えており、「ふるさとの味」でもなければ「宿泊料金の安さ」でもない。宿泊者も「臨時的宿泊施設」として利用したにすぎないとしています。
 そして、このような民宿を戦前型とし、「民宿発展の第1期」としています。

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 第2期は、レジャーの大衆化に伴い、第一陣が慰安旅行や招待旅行であり、第二陣は若者と家旅客で、レジャーを楽しむ意欲はあっても所得が伴っていないとしており、ホテルや旅館業から溢れた、あるいは既存の観光地を避けた、この大衆観光客を受け入れたものが民宿だとしています。そして、民宿ラッシュが自然に形成され、「民宿は旅館の公用品ではない」と主張しています。
 第3期としては、民宿を計両的につくり、積極的に観光客を引き寄せる地域ぐるみの対策を考え、過疎対策もその一つであり、田舎風の料理もそうであり、マスコミ利用も積極的になってきました。そしてホテル、旅館、公営宿舎と競争してイメージ化をはかっているとしています。
 この概念は歴史的概念に抵触していることを付言しておきます。いずれにしても日常用語としての「民宿」の語源的な発祥といったことは明白ではありません。
 最近は民宿の語源的な問題もさることながら、民宿自体が各種各様の形態で存在し、日本各地、いや海外にもペンションと称するものが存在しています。
 それに、国内旅行はもとより、海外旅行のブームにより、世界各国の民宿を利用できるシステムができています。そして民宿の利用者が増大するに従って、多種類の民宿のガイドブックも出版されるようになりました。あくまでもガイドブックであって、民宿の研究ではありません。しかし、民宿の研究には、かかせない重要な出版物である。この出版物に加えて重奏なものは、各地に民宿の研究をした業績が残存しているものと思われます。そのため各地に資料が点在しているので入手困難な場合が多い。現在入手している資料をもとにして「民宿」の概念を検討すると同時に、日常用語としての民宿概念にも抵触したい。
 まず第一に、民宿の歴史的な発展過程からの分析です。「大正時代、登山やスキーが盛んになり長野県白馬村細野の良家に、登山客やスキー客が民泊したのが始まりという説と、海水浴が盛んになり、東京から海水浴客が千葉県の館山にどっと押し寄せ、旅館に収容しきれなくなり民宿に泊めたのが始まりという説、そして釣り人や一部の海水浴客が、伊豆の漁師の家に泊まったのが最初という説などがあり、はっきりしたことがわかりません。旅館でなく、民家に宿泊するのが民宿ということになれば、それこそ大昔の旅が始まった時代以来からということになる。」としています。このように、歴史的には、いろいろの説があってはっきりしないということです。
 しかし、長野県白馬村細野の民宿について、別の説、を少し長くなるが紹介してみましょう。「白馬村網野の民宿は、わが国では最も古い歴史をもっています。いねば、民宿のふるさとのような存在です。明治16年(1883)に当時の大町小学校長だった渡辺氏と窪田氏らの白馬登山がきっかけとなって登山の黎明期を迎えるわけですが、その後、明治27年(1894)英国の宣教師ウォルター・ウエストン氏が登山、白馬岳への登山者が増えましたが、その頃白馬岳頂上にはまだ山小屋がありませんでした。明治の晩年に河野氏らが白馬岳に登り、この実情を見て白馬館の先代松沢氏に山小屋建設を初めました。同氏も早くから白馬岳の開発と将来の展望を胸に描いていたので直ちに建設にとりかかった。山小屋建設といって仏実際は近くにあった測量部員の使用した石ムロを利用したもので、およそ宿などというものではなく、人が立てば頭がつかえてしまうといったシロ物でした。登山者の受け入れ体制としては、これでも当時としても先端をきった施設として注目されたわけです。
 大正に入ると、明治44年(1911)に招へいしたオーストリアの陸軍、レルヒ少佐によって伝えられたスキ一も白馬山麓に入ってきました。ここにはゲレンデとして格好な斜面が随所に展開されており、これはまたたく間に白馬山麓をスキーのメッカとして世に送りだす機運になりました。大正の中期にはスキーを使って登山を志す岳人も現われ、13年にはガイドに対するスキーの講習会などまでが開かれ、スキーの普及は細野集落にめざましい活発を与えました。かつて一部の岳人たちがガイドの家を利用した仮の宿舎は新しい花道を得て、民宿という名を用いた簡易旅館として登場する時期が到来したのです。これがわが国における民宿の発祥というわけです。ボッカを兼ねた案内人と登山者の間に生じた信頼を根底とした友情が民宿の絆になったのはいうまでもありませんが、白馬岳という天恵の自然環境を背景にした地理的条件と、不毛な土地に農業を営む住民の素朴な生活感情が、登山、スキーという新しいレジャーを媒体として自然発生的に民宿という外来客受け入れの業態を定着させてしまった。」としています。この説によると、明治時代中期に白馬岳登山をする人の山小屋建設からスタートし、スキーのゲレンデの開発が進むことになります。そして大正末期には、民宿という名称で簡易宿泊所の登場をみることになります。
 ここで注意しておかなくてはならないことは、大正末期に民宿という語句が発生してきたとしているところです。それに、自然環境を背景にして、地理的条件と農業を営む住民の素朴な生活感情との結びつきにより進展したとしていることである。このような歴史的萌芽により、昭和初期には行政的指導が加えられていくことになる。そして、レジャー・ブームによって民宿それ自体の経営上の問題点を露呈するまでにいたるのは、それから40年経過することになります。
 そこで、昭和44年8月に長野県白馬村民宿の実態調査を中心にして分析をしてみると次のようになります。
 「白馬村民宿の分布」を調べてみると細野集落を中心に集中していることがわかる。この民宿全体のうち、旧糸魚川街道ぞいの佐野、森上の遍路宿的形態から民宿に発展したものと、専業としての旅館業に変化したものがあります。
 一方、農業をしながら,たまたま白馬登山のための一夜の客が宿とするところから、簡易宿泊業が行なわれるようになる形態とに分類できます。
 前者は明治以前より営まれており、後者は細野集落が中心となり、明治以後のもので、最初に登録したのが昭和初期(昭和12年)、アルプス登山者の入り込みにより、民宿数が増加の一途をたどり、昭和20年以後はスキーにより脚光をあびるようになります。
 しかし、旅館との競合関係にあるので、一時的に県で制限を加えて民宿の増加の抑制をはかるが、戦後の高度経済成長とレジャーブームにより利用者が増加し、抑制のかいもなく民宿は増加の一途をたどりました。
 以上のように、遍路宿から旅館、ならびに簡易宿泊業に発展したとみるべきでしょう。行政的には、県に登録されたのが昭和12年です。従って、宿泊業として営業をはじめたことを明白にしたものと認めるならば、宿泊者を客として接客して、その対価として金銭を得ることを業とするようになったと定義することができよう。つまり、民家に、はじめて、一般の人(民)をとめる(宿)とがはじまったとみるべきでしょう。

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