土地改革の内容

寄生地主制の制度的条件のもとで営まれている農業を返代化するやり方は、地主的土地所有を解体することにあります。小農的構造を基盤にして成立していた寄生地主制の解体を内容とする土地改革をとりあげると、後進地域を国内に残存させている諸国で行なわれた農業の構造改善の第一着手は、まず寄生地主制に手をつけることでした。もっとも各国の実情をみると、地主的土地所有の解体はそれほどスムーズに行なわれたわけではありません。土地改革が最も徹底的に、しかも2年半という短期間に行なわれたのは日本の場合です。地主的土地所有はほとんど解体され、自作農的土地所有が日本農業の土地所有構造の基本となりました。その意味で根本的な地主制度の変革が行なわれ、変革の果実は完全に維持されています。

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日本は明治維新によって封建領主による土地領有は解体しましが、その後農業部門では地主制がむしろ強化され、地主、小作関係は戦前の農村構造の基本的なパターンでした。昭和15年の状況は自作農家31%、小作農家42%、自小作農家27%で小作地面積は総耕地の42%でした。当時の小農群の約7割がその耕作地について小作関係のもとにあったために、地主、小作関係が農業構造の基本であったといっても過大ないい方ではありません。
この小作地を貸付けている地主は170万戸あり、その78%は1ヘクタール未満の貸付地をもつ零細地主でした。他方、中の上から大規模の地主は約10万戸で地主数の6%にすぎませんが、貸付耕地の47%を所有、貸付けしていました。中の上を含めた大地主集団が小作地総面積の約半分をもっていたのです。水田の小作料は米の収穫量の約半分でした。この地主的土地所有の社会的性格に対する評価は、ふたつの立場があり、ひとつは半封建的土地所有とみるもの、他は近代国家の中の小農を基礎にした寄生地主制で、封建時代の土地領有とは性格が異なるものとみるものです。この評値の相違は農地改革の社会、経済的評価、改革後の農地制度に対する性格づけなどで見解の違いとなってあらわれます。
日本の農地改革はふたつの顔をもっています。ひとつは、第二次大戦による日本の敗戦、連合軍による軍事占領とその民主化政策による社会的インパクトの産物という面です。もうひとつの顔は、戦時中から日本の農林省内部でひそかに準備されていた日本の戦時国内政策の延長という面です。戦時中から農業生産力の向上による食料確保のため、生産力向上の阻害条件である地主的土地所有を改変しようという政策案が政府内部で検討されていたことが戦後明らかにされました。この政策案は占領軍の方針が示される前に、日本政府の手で国会に提出された第一次農地改革法案に反映されています。日本の農地改革がふたつの顔をもっていたという意味は、占領軍の農地改革政策は日本にとってまったくの青天の霹靂であったわけではなく、すでに日本国内における社会階級構造とその利害を政治過程で代表する勢力配置が農地改革を受け入れる状態になっていたこと、それにもかかわらず地主階級の社会勢力はなお強大で、占領軍の権力による介入がなければ、第一次農地改革案でさえも完全には実施されなかったかもしれないということです。占領軍とその占領政策決定機関である対日理事会によって勧告された農地改革要綱によるものは、第二次農地改革案とよばれています。このふたつの改革案では、地主所有地を小作農に配分する方式に根本的な違いがありました。農林省が用意した第一次案では、小作地の売渡しは原則的に地主と小作人との直接取引により、地主が応じないときだけ協議裁定によって売渡しを地主に強制できることになっていました。第二次案では政府が直接地主から一定の条件の小作地を強制的に買収し、これを小作人に売渡すという方式をとりました。この方式の相違は、当時農村ではまだ地主が強い社会的影響力をもっていたことを考えると、農地改革の徹底という点でその成果に大きくひびいてくるものでした。国の買収対象となる小作地は、不在地主の所有貸付耕地全部と、在村地主の貸付小作地で都府県平均1ヘクタールを超えるものです。このほか、在村地主が自作している場合は、自作地と貸付地の合計が都府県で3ヘクタールをこえるとき、その超過分の貸付小作地も国の買収対象となりました。当時は市町村合併前で現在よりも市町村域はずっと狭かったため、この不在地主の規定はかなりきついものでした。買収された小作地は、ひとまず国の所有、管理する土地となり、国がもとの小作人に売却したのです。この方式は、買収売渡しを短期間で確実に行なう上で大きな効果がありました。こうして小作人に解放された面債は約180万ヘクタール、小作地面積の80%でした。農地改革の結果昭和15年には総耕地の46%を占めていた小作地は、農地改革後には11%に滅少しています。こうして日本では寄生地主制は短期間に実質的には消滅したのです。
国の地主からの買収、小作人への売渡しは有償でした。しかし戦後インフレーションの進行過程で地主の受取り分はかなり低価格となり、小作農の支払負担額は実質的に低下する結果となりました。地主にどれだけの貸付面積保有を認めるかということが、土地改革徹底の度合いを計るひとつの尺度となります。発展途上国の土地改革では、これらの国の単位面積当の収穫量が低いことを考慮してもなお地主の保有限度はかなり大きい場合が多く、その点、日本で行なわれた在村地主平均1ヘクタール、不在地主ゼロという貸付地似有限度は地主制の存立を許さない程度の厳しいものでした。小農を自作農化する目的で行なわれた土地改革では、たいがいの国で保有土地面積の制限を設けています。日本の農地法でも農地の経営最高標準面積を設けて、農業経営者の農地所有面積、貸付面積、これから買入れまたは借入しようとする農地面積の合計がこの最高限度をこえるときには農地の買入れ、借入はできないとしました。このことは、自作農であってもこの限度をこえた耕地規模の拡大ができないということで、規模の経済の実現という効率視点からは奇妙な制限のようにみえますが、土地改革が実施される場合には社会的公正という観点が強調され、さらに資本主義社会内部の安定層としての小農的家族経営の存在が重視されたこともああり、経営保有制限が設けられました。
土地改革の成果を維持するには、改革後の農地が再び地主の手に集らないように、社会的制御が行なわれるような農地統制制度が重要な意味をもっています。日本では農地の所有権、賃借権の移動は国、県、市町村機関の統制のもとに強く制限され寄生地主制の復活を阻止する政策がとられました。農地統制の制度的手法として採用されたのは、小作料率の統制、残存小作地の耕作権の強化、農地の権利の移動制限、農地の転用制限などです。
日本を除く話外国の農地改革は、発展途上国でも先進国でも日本ほど短期、徹底的には行なわれませんでした。なぜ日本でこれほど確実な成果をあげたのかというと、それには次の点が指摘されています。
軍事的占領軍の絶対権力のもとで行なわれたこと。連合軍諸国の間では様々なな意見がありましたが、日本の侵略的軍国主義の基礎に寄生地主制に基づく農村の社会構造があるという点では一致していたようです。また小作制度による農民の低い所得が日本の工業にとって国内市場を狭いものにし、軍事的侵出を伴う外国市場拡大志向を強めたものとされました。したがって寄生地主制を根本に変革して自作農的小農制を実現することが日本軍国主義の復活を限止する有力な手段と考えられたのです。
日本には小作料低減と小作権の確立を目的とした農民運動が戦前から長い歴史をもっていました。土地闘争の経験をもった農民は農村各地にいて、上からの上地改革を小作農側で受けとめ農地改革推進に有力な支えとなりました。
日本は初等教育の普及、識字率の高さはどんな社会階層にも一様に浸透している点で、世界でも有数でした。この教育水準の高さが小作農民の権利意識に大きな影響があることは、発展途上国の土地改革リポートを読むとよく分かります。日本の地方行政は自治制度という点では欧米諸国に劣りますが、中央集権的行政機構の能率という点では高い水準をもっていました。このことが農地改革の効果的実施を可能にしました。また、戦前から都道府県には、国が人事権をもつ農地行政の専門官が配置されていて、土地改革の府県実務はこの専門家が行ないました。市町村レベルの実務は新しく設けられた農地委員会の仕事でしたが、この委員会の委員は小作5、地主3、自作2という構成で小作農民の発言権が強いものでした。
発展途上国では、国内の各地域の農家経済、土地条件、耕作方法などについて統一的な調査資料がないことが多く、そのために土地改革の各種基準も地域ごとの共体的基準が示せず、抽象的規定を示しているにすぎない例が少なくありません。また、地片ごとの土地台帳も整備されていないことがあり、これらの情報不足が土地改革の実際運用にあたって大きな障害になっています。日本ではこれらのテータはかなり長く整備されていて、諸基準は具体的に明示でき、解放対象小作地の把握も比較的容易でした。

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